天国と地獄
 

2020年6月5日更新

第131回 私の人生で一番の「緊急事態」<その1>

 

現在、新型コロナウイルスの流行により、日本全国に「緊急事態宣言」が出されています。
日本という国は、緊急事態が到来してから泥縄式に法律を作るような国家ですが、
緊急事態というのは必ず起こるものです。
今回は、私が人生で体験した一番の「緊急事態」について二回にわたって述べたいと思います。

以前からこのコラムでもお話ししていますが、私は毎日新聞社で報道カメラマンをしておりました。
ですから、首相官邸や国会議事堂、御巣鷹山墜落現場、奥尻島の津波、交通事故から列車事故、
富士山山頂に小型機が墜落した現場に乱気流の中をヘリコプターで行くというような
有り得ない取材まで、この世で起こるほとんどの出来事を取材してきました。
その体験から、「世の中というのは、何でも起こり得るのだ」ということをひしひしと感じています。

ですから新聞社時代、私は本当に安月給だったのですが、
それでも財布には必ず30万円はいつも入れておくようにしていました。
なぜかと言うと、たとえば九州で取材をしている時に急に親が倒れたという場合、
それが夜中だったら飛行機も飛んでいませんからタクシーで東京に戻るしかない。
そんな緊急時のために、現金はある程度の額を持つようにしていました。

以前にもお話ししましたように、3.11東日本大震災の時、私は偶然にも福島県のいわき市にいました。
津波で電気が止まってしまったのでコンビニでもレジが動かなくなり、
電子マネーやクレジットカードなどは一切使えなくなりました。
現金でしか物が買えなくなってしまったのです。
レジで私の前にいた最低限の食料をカゴに入れていた主婦が店員に
「レジが壊れていて動かないので、現金しか受けつけられません」と言われて、
泣きながらおむすびなどを棚に全部戻していたことを今でも覚えています。
危機管理というのは、そういう本当に細かいところから始まるのです。

さて、このように様々な経験をしている私ですが、今まで挙げたお話はまだ序ノ口です。
今回は、人生で一番驚いた体験をお話ししていきたいと思います。
これは毎日新聞社を辞めて数年後、第二海援隊でお客様とのツアーを始めてまだ初期の頃の話です。
大規模なツアーではなく、本当に身内の親しい会員様と数人で、
トルコのイスタンブールに行きました。2001年の4月のことでした。

ツアーを開催するにあたり、私もイスタンブールのホテルをガイドブック等で調べてみて、
「フォーシーズンズホテルがいいな」と思い、そこに泊まろうとしていたのですが、
JTBが(JTBが悪いというわけではないのですが)
「いや、そこよりもスイス航空がやっている『スイスホテル』がいいですよ。眺めもいいですし」
と言うので、たまたまスイスホテルに変えたのです。
この「たまたま」によって、私はとんでもない目に遭うことになったのです。

その日の前日は、住宅街の中にあるこじんまりした美味しいフランス料理のレストランで、
皆で夕焼けを見ながらシャンパンやワインを飲んだと記憶しています。
ホテルに戻り、今は会社を辞めてしまいましたがI君という男性スタッフと、
お客様を今後どうやって楽しませようかと私の部屋で軽くビールか何かを飲みながら会議をしました。
その時、私は日本から「柿ピー」をたくさん持って来ていたのでつまみに食べていたのですが、
「I、お前若いからお腹が空くだろう? 夜、これでも食べておけよ」
と柿ピーを全部あげてしまいました。

Iとの会議を終えて、私は就寝しました。私の部屋はホテルの最上階のスイートルームで、
窓ガラスが湾曲していてとても眺めのいい部屋でした。
その日はものすごい嵐で、風がビュービュー吹いてガラスが割れるかと思うほどで
すごく不気味な夜でした。

翌朝、私はちょうど7時くらいに起き、窓を開けると昨夜の嵐は止んでおり快晴でしたが、
残った雲がビュンビュン飛んでいてとても風が強い日でした。
下を見ると、ひとりの中年の女性が抱きかかえられて救急車に乗せられていたのですが、
「病人が出たのかな」というくらいの認識しかなく、
その時はまだ、とんでもないことが起こっているとは夢にも思っていませんでした。

それからティーバッグの玄米茶を淹れて飲み、落ち着いたところで
そろそろ会社に連絡をしてみようと、ホテルの部屋の電話をとりました。
当時は、まだ国際携帯電話を持っていなかったと思います。
すると、今でも務めているSさんという経理の普段おとなしい女性が、
突拍子もない声を上げて「社長~! 社長~!!」と言うのです。
「あれ、この子、俺のこと好きだったんだ! そんなに俺の声が聞きたいのか?」と思うほど
「社長~!!」と言うのです。「今、どこにいるんですか?」と言うので、
「変なことを聞くな? ホテルに決まってるじゃないか」と思いながらも
「ホテルだよ」答えたところ、「Oさんに代わります!」と言うのです。
当時、総務部長のOさん(Oさんはその後、がんで亡くなってしまいましたが)が
会社を取り仕切っていたのですが、Oさんも慌てた声で
「社長! どこにいるんですか?」というので、
「はぁ~、いよいよボケちゃったのかな? 帰ったらクビだ」と思いました(これは冗談ですよ)。
「何、言ってるんだ」と言うと、「社長、ホテルのどこにいるんですか?」と言うので
「え、何言ってるのお前?」と言うと、向こうは驚いて「社長、知らないんですか?」。
「え、何言ってるのお前? 何? 何?」「言っていいですか?」
「社長、心して聞いてくださいよ。社長のホテルはテロリストに占拠されています」

「・・・えーーー! ちょっと待って!」と受話器をそのままにして、パッともう1回、
その湾曲した最上階の窓から下を見ると、なんとホテルの周りに戦車が数十台配備され、
こちらに大砲を向けているのです。そして何百人という兵隊が銃を持っているのです。
「あちゃ~、Oさん、参ったなぁ」「社長今、部屋ですか?」「部屋だよ」
「他の会員様やスタッフはどうなっていますか?」
「ちょっと待って、1回電話切るから」と急いで内線電話を掛けたのですが、
まずスタッフのIは出ない。
もう一人のお客様も出ない。
一人だけ中年の女性のお客様が出て、私の部屋に来たいと言ったのですが
「いや、今部屋を出たら危ないから、ちょっと待っていてください」と部屋で待機するよう伝えました。

テレビをつけるとCNNの緊急ニュースとして、私のホテルの入り口が映っているではありませんか!
その時、1996年のフジモリ大統領時代、在ペルー日本大使公邸が占拠され
テロリストが4ヵ月以上立て籠った大変な事件を思い出し、
「はぁ~、俺はこのホテルに数ヵ月いることになるかもしれない。いや~、どうしよう」
と落胆したのでした。

その後、なぜ私の部屋にはテロリストが来ないのだろうと思い、
まずドアのスコープから外を覗いてみました。
銃で撃たれたら危険なので、ドア越しにしゃがみこんで耳を当てて廊下の音を聞いてみると、
誰かが歩いている音がします。
おそらく、テロリストが見回りに来たのだと思いました。その足音が去った後、
そおっとドアを開けて、オートロックなのでカードを持ち、部屋の外に出ました。
電気が消えていて真っ暗です。映画の場面でよくありますが、
這ってエレベーターホールまで行きました。人影はありません。
しかし、それ以上行ったら危険だと思い、部屋に戻りました。
そして、先ほどの女性のお客様にホテルの内線電話をして、
「途中で捕まるから、絶対に動かないで部屋にいてください。
エレベーターも動いていないようです」と伝えました。

その後、もう一度会社に電話を掛けました。すると「Iは逃げた」との報告を受けたのです。
Iは、もう別のホテルにいるらしいということがわかり(なぜそうなったかは次回述べます)、
それを聞いた時は「あの野郎、柿ピー持って逃げやがったな。俺は今からここに立て籠るのに。
柿ピー、やるんじゃなかった」と後悔しました。
それ以来、私は秘書に海外旅行時のスーツケースの空いている部分には
柿ピーをいっぱい詰めておくよう指示をしています。なにしろ、最後の食料ですから。

もう一人のお客様は行方不明で、電話にも出ません。
私は部屋に立て籠るしかないので、入り口のドアが絶対に開かないように
色々な家具を持ってきてバリケードを築きました。
そして、「まず水だな、水がなくなったらおしまいだな」と思い、
お風呂に水をいっぱい溜めました。ポットがあったので、沸かして飲めば大丈夫です。

柿ピーはあげてしまったのでなくなってしまったのですが、
ミニバーにどんな食べ物があるか確認しました。ミニバーには、ほとんどお酒しかありません。
他にはチョコレートやちょっとしたポテトチップスくらいしかないのです。
「参ったな」と思いましたが、とりあえずそれらを一週間分に分けることにしました。
月・火・水・木・金・土・日と紙に書いて、そこに少しずつ置いていったのです。
しかし、あまりにも量が少ないので、午前中だけで2日分食べてしまいました。
その時点で「あ、ダメだ。7日も我慢できない」と思いました。

「どうしよう」と不安になりましたが、
「テロリストが私の部屋に来たら、どこか非常階段から逃げられるのかな」などと考えながら、
本社と連絡を取っていました。
日本では秘書たちが必死に外務省に電話をしてくれていたようですが、
何度も電話を切られたりたらい回しにされた後、ようやく繋がったと思ったら結局、
外務省は何の情報も持っていませんでした。
いかに日本の外務省が当てにならないか、その時にわかりました。

現地時間で昼過ぎに、テロリストがロシアのチェチェングループだとわかりました。
ソ連崩壊後ロシア政府にいじめられ、自分たちのふるさとにいる国民がひどい目に遭っているので、
それを世界に訴えるためにそのような事件を起こしたのです。

このコロナ禍での生活も起こっていることも思いもしなかったことばかりだが、
常に前向きに対応して生きて行きたいと思っている。
           (2020年5月 東京・世田谷区にて)